夢のみなもと人生ノート

「夢のみなもと」とは、やりたい夢を描いている本当の自分という意味で使っています。日常に起こる様々な出来事や過去の思い出から自分らしく生きる人を通して気づいたことを人生ノートとして綴っています。

ウドの大木の記憶に学ぶ

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人生というのは、苦手な相手ほど学びが大きいものです。

小学校時代、私には大変苦手なT先生という教師がいました。4年生の時の担任だったT先生は、成績の良い優等生をあからさまに、えこひいきするタイプでした。

今も鮮明に覚えている出来事があります。
ある優等生の男子生徒が、先生の机の上の拭き掃除をしている時に、運悪く青インクをこぼし、国語の教科書が使えなくなるほど汚してしまったのです。これはさすがに優等生でも怒られるだろうと思ました。

なぜなら前に、ある生徒が教室の掃除をしている時に、うっかりほうきの先をガラスに当てて割ってしまったことがありました。その時に思い切り殴られ、長時間廊下に立たされた姿が頭をよぎったからです。

だがその時先生は、故意にしたのではないと、優等生に対して何のお咎めもなく、
笑って済ませているだけでした。それほど、えこひいきがはっきりした先生でした。

特に嫌だった思い出があります。
それは毎回テストの度に、教室の後ろに生徒一人ひとりの点数を貼り出し、
なおかつ席替えは、成績の悪い順に前から座らせるのです。

その頃の私の成績は、後ろから数えた方が早かったほどの落ちこぼれ生徒でした。
成績の悪い順に座ると、私の席は前から2列目の丁度真ん中になります。

当時、私は人一倍背が高く、他の生徒と比べると頭一つ出るくらいの差がありました。
そんな生徒が、前列の真ん中に座るものですから、とても目立つのです。

それがまた授業のたびに、教壇にいる先生と目が合うと、決まって言われるのです。
「お前みたいに、背が高い生徒が前に座っていたら、後ろのものが邪魔になって仕方がない」

今にして思えば、もっと頑張って成績をあげなさい、という意味が込められていたのかも知れません。

しかし、当時の私にはそのように受け取るほどの度量は、まだ備わっていませんでした。

さらに先生は、トドメを刺すように言葉を続けます。
「お前のような人間を何というか知ってるか?ウドの大木と言うんや!」

当時の私は、その言葉の意味を知りませんでした。 自宅に帰って辞書で調べて、初めてその意味を知ったときは、さすがに落ち込みました。
「図体ばかりが大きくて、何の役にも立たない」

ある時期、先生から名前を呼ばれずに、「ウドの大木」と毎日繰り返し呼ばれたことが記憶に残っています。

このT先生の最悪のクラスが卒業まで続くと考えると、毎日学校に行くのが憂鬱で、授業にも集中する事ができなかったのです。それでも1日も休む事なく通い続けました。

すると5年生の時に運良くクラス替えになったのです。ようやくT先生から解放されると思うと、これほどありがたいことはありませんでした。

しかも担任は、前回紹介した山崎奣敏(やまさき・あきとし)先生です。山崎先生に出会えたことは、私にとってはとてもラッキーな事でした。まるで闇の中に一筋の光が射したような感覚だったと記憶しています。
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ところがです。面白いことに、T先生にえこひいきされた側の優等生は、私とは全く逆の記憶が残っていたのです。

山崎先生の場合は、成績の良し悪しに関係なく、悪い事をすれば連帯責任で、関わったもの全員が同じように、思い切りしかりとばされます。

ところが、褒められることが日常で、叱られた経験が少ない優等生にすれば、素直に受け入れにくい現実だったのかもしれません。

卒業後、30年以上経って、私は同窓会を企画しました。その時、ある優等生が発した言葉に、とても衝撃を受けたのです。

「山崎先生は最悪の先生やった。それに対して、T先生はとても信頼できる思いやりのある先生だった」と。

友人のその言葉で、私は大切なことに気がつきました。結局、人が人を判断するとき、何を基準に決めるのか。 それは自分にとって心地が良かったか悪かったか、という自分勝手な判断で記憶しているのです。しかも人は自分の記憶というのは、常に正しいと思い込んでいます。

成績の良い生徒の場合は、たとえ成績を貼り出されても嫌な気持ちにならないでしょう。むしろそのことが誇りとして記憶に残っているかも知れません。しかし、成績の悪い生徒にとっては気分の悪い記憶として残る可能性が高いしょう。

記憶というのは実に勝手なもので、同じ出来事であっても、心地が良いか悪いかで、記憶の内容は人それぞれ変わるのです。それだけ記憶というのは曖昧で、真実とはかけ離れていることもあるのです。

ですから、もしも優等生の彼が、私のように二人の先生の事を文章で表現したとすれば、記憶の違いによって全く逆の内容になるかもしれないのです。

記憶というのは、その時の感情によって心が支配され、人を誤って認知してしまう可能性ががあるという事を、私は優等生の一言で気づくことができたのです。

要するに、優等生だった彼が山崎先生に対して悪い印象を持っているように、私にとっては、たまたま心地の悪い経験をしたから、T先生のことが必要以上に悪い記憶として残っている可能性が多分にあるということです。

おそらく差別意識もこのようなことから生まれるのでしょう。差別する側と差別される側では、受け取り方は全然違います。

優位に立っている側は、差別される側の気持ちがわからないので、差別を当たり前のこととして振る舞う人が現れてくるのです。

人間というのは曲がった感情が入ると、本質がみえなくなります。そう思って、自分の人生を改めて振り返って見ると新しい発見が生まれます。

結局のところ、人からどうみられるかを常に気にしながら生きているから、人の意見が気になり言動に左右されるのです。

授業に集中できないのは、人から見られている方に意識が向いているだけの事で、
勉強ができない理由にはならないのです。

イチロー選手のように、自分がどうしたいかを大事に生きている人にとっては、
人のどんな言動にも左右されることなく、自分のパフォーマンスを発揮することだけに集中しています。

人のちょっとした言動に心が縛られ、大切な人生を無意識のうちに支配されるなんて、
よくよく考えてみれば、とてもつまらないことです。

人からどんなに非難されても、自分が自分を否定さえしなければ、心が乱れることはありません。

つまり相手の言動で心が傷ついたのだとすれば、それは相手の責任ではなく、自分が傷つく選択をしたに過ぎないということです。

優等生の言った言葉のお陰で、私は色々なことを深く考えさせられました。人の価値観は様々です。それだからこそ人生は面白いし、色々な学びができるです。

おそらくT先生は、子どものころから成績が良く、ひいきされる側の立場で過ごされたのでしょう。だから落ちこぼれの気持ちが理解できなかったのだと思います。

私がもし優等生で、えこひいきされる側に立っていたとしたら、 今とは違う記憶が残っていたかもしれないのです。

山崎先生とT先生は、私にとっては光と闇の関係だったと思います。花火は闇が深いほど美しく光り輝きます。どちらがいい悪いかではなく、今思うと共に必要な先生だったと思います。

T先生のお陰で、私は忍耐力が養われました。また、立場の弱い人の気持ちが少しは理解できるようになったでしょう。

それと一番大きかった事は、人の言動に左右されずに、自分の信じた道を生きる、そのことの大切さに気づくことができたことです。

人の出会いは、自分にとって都合の良い人ばかりとは限りません。むしろ都合の悪い人こそ自分を成長させてくれる大切な存在なのかもしれません。

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