夢のみなもと人生ノート

「夢のみなもと」とは、やりたい夢を描いている本当の自分という意味で使っています。日常に起こる様々な出来事や過去の思い出から自分らしく生きる人を通して気づいたことを人生ノートとして綴っています。

小学校時代の恩師に学ぶ

f:id:mugenjuku:20180211210914p:plain

小学校時代、私には大変お世話になった一人の恩師がいました。
その名は山崎奣敏(やまさき・あきとし)先生です。生徒一人ひとりの良いところを引き出す、情熱あふれる素晴らしい熱血漢でした。

昭和41年4月、小学5年生の新学期に、初めて私は先生と巡り合いました。

最初に印象的だった出来事があります。授業が始まってしばらくしてから、先生からこんな発言がありました。

「今週の日曜日、教室を綺麗に掃除をするので、時間があるものは参加してほしい」

その頃の暖房は、まだ石炭を燃やしていました。そのため教室の中はススで真っ黒に汚れていました。そこで先生は教室を綺麗にしようと提案されたのです。

しかし、決して強制ではありませんでした。家庭の事情で、どうしても参加できない生徒もいるからです。

あくまでも生徒一人ひとりの自主性に任せたのですが、ほとんどの生徒は自発的に参加していたように記憶しています。

タワシに磨き砂をつけて、床や壁、窓からドアに至るまでピカピカになるまで一日中徹底的に磨き続けます。すると夕方には、本来の木目が蘇り、見違えるように美しくなっていました。

「どうだ、気持ちが良いだろう!みんなで綺麗にしたこの教室で、明日から1年間お世話になるんだ。」

何か目標を持ち、みんなが協力しあって、一つのことを成し遂げ、共にその喜びを味わう。こんな中から先生は、クラス全体の連帯意識を養ってくださったように思います。

先生は学校の勉強以外にも、人生において大切なことを教えて下さいました。

「いいか、親という字は、木の上に立って見ると書くんだ。親は、ずっと子供のことを心配しながら見てるんだぞ。だから親に心配をかけるようなことだけはするなよ!!」

先生のそんな言葉は50年経った今も心に焼きついています。

その頃の我が家は貧乏生活を送っていました。しかし、我が家以上に貧しく、苦労をしている女子生徒もいました。彼女は幼い頃に母親を亡くし、父親に育てられました。

そのため小学校低学年の頃から、炊事、洗濯、買い物、掃除と言った家事全般を一人で切り盛りをしていました。

そんな状況ですから、修学旅行に行くお金を積立ることさえできませんでした。

先生はそのことを知って教育委員会に何度も足を運んで助成金を申請し、そのお陰で彼女も一緒に修学旅行に行くことができたのです。

私たち生徒は、そんなことはまったく知らずに過ごしていましたが、ずいぶん後になって同級生の母親からそのことを知らされました。

こんな先生でしたから、いつも授業が終わってからの方が忙しかったように思います。毎日遅くまで生徒宅を訪問しては、父兄との会話を大切にされていました。

 f:id:mugenjuku:20180211210754j:plain

夏の思い出話があります。

先生は給料日になると、自分のお小遣の中からアイスクリームをご馳走してくれました。

授業のカーテンを閉めながら、こっそりと食べるアイスクリームの味は格別です。

 「どうだ、みんなでこっそり食べると、最高にうまいだろう・・・」

 一方で悪いことをしたら、そこに関わる者は連帯責任で、男子も女子も容赦なく平手打ちを食わされました。

私もずいぶん強く殴られましたが、家に帰っても親には言えません。そんなことをすれば、さらに叱られることがわかっているからです。

それだけ先生は、父兄からも絶大なる信頼を得ていたのです。

先生と出会うまでの私は、自分に自信が持てない、どちらかと言えば控えめな子供だったと思います。

成績もさほど良くはなく、運動神経も人並みで、特に目立った所は何一つない普通の生徒でした。

ところが、そんな私にも先生の発言で光がさしたことがあります。それは教室の外に出て、校内を写生しているときでした。

「おまえは絵がうまい。中々才能がある」

人はほめられたら、その時間が楽しくなるものです。山崎先生の一言で、週に一度の絵の時間が、とても好きになりました。

当時私が住んでいた大阪市では毎年、市が主催する写生大会がありました。

先生のお陰で、絵に対する自信が芽生えた私は、5年、6年と2年連続で大会に入賞することができたのです。

絵は他の教科のように決められた答えがなく、構図、色の表現、筆の使い方など、人によって表現方法は自由です。

自分が思い描いたことを自由に創造できる。しかも、わずか2時間ほどで、それが完成する。そのことがたまらなく面白く、魅力に感じました。

大人になるにつれて絵は描かなくなりましたが、自分にとっては、この時の想像と創造を楽しむ感覚が、将来の仕事の面白さの原点につながっているような気がするのです。

教師のちょっとした一言が、生徒に対してどれほど影響があるのか、私はこのことをつくづく実感しています。

先生は、生徒のことをいつも励まし、勇気づけてくれました。

 「おい、中村!今年1年間休まなかったら、精勤賞がもらえるぞ、がんばれよ!」

皆勤賞というのはご存知のように、6年間一度も休まなかった生徒に対して贈られる賞です。

これに対して精勤賞といのは、休んだ日が3日以内の生徒に与えられる賞です。

私は1年生の時に3日間休んだきりで、それ以降は一度も学校を休んでいませんでした。そのことを先生は、ちゃんと把握されていたのです。

 成績だけで生徒の良し悪しを判断する先生が多い中で、山崎先生は生徒一人ひとりの長所を引き出そうと常に意識をされていたように感じます。

先生からそのことを言われてから、私は精勤賞を次第に意識するようになりました。

ところが、卒業まであと1ヶ月に迫った2月の寒い日のことです。私はあいにく風邪をこじらせ40度近くの高熱を出してしまったのです。

それでも先生の励ましに応えようと、その日は無理をして登校しました。しかし、普通の状態じゃないのは、誰の目から見ても明らかです。当然先生も気づいたようでした。

「中村!しんどかったら無理せずに帰れよ!」

私は大丈夫ですと答えて、その日は最後まで授業を受けました。しかし、翌日も熱が下がらず、とうとう学校を休むことになってしまったのです。

それから1ヶ月後の卒業式当日のことです。驚いたことに、3名いた精勤賞の中の一人が、自分だったのです。

「よく頑張ったな!」

先生からは温かいお言葉をいただきましたが、私自身は少しうしろめたい気持ちがありました。

もちろん、先生は私が4日休んだことはご存知だったと思います。では、なぜそのように判断をしたのか、当時は理解できませんでした。

しかし今、この歳になって思うに、先生は規定を一日オーバーしたことよりも、高熱を出しても休まずに学校に行こうとする姿勢が精勤賞に値する、おそらくそう判断されたのだと思います。

山崎先生は、これまでどれほど多くの生徒を勇気付け、励まし、一人ひとりの良さを引き出されたことでしょう。

私もその中の一人ですが、先生との出会いがなければ、また違った人生を歩んでいたに違いありません。

平成元年2月24日、昭和天皇が逝去されたこの年に、山崎奣敏先生は63歳という若さで天寿を全うされました。

成績を重んじる偏差値偏重教育のこの時代に、

成績の良し悪しだけでは計ることなく、

生徒一人ひとりの個性を引き出し、

常に本質を見極め、本気で生徒と向い合う、

そんな教師がどれほど存在していることでしょう。

今私もこの歳になって、山崎先生の教師としての尊さを身にしみて感じています。

f:id:mugenjuku:20180211211012j:plain