夢のみなもと人生ノート

「夢のみなもと」とは、やりたい夢を描いている本当の自分という意味で使っています。日常に起こる様々な出来事や過去の思い出から自分らしく生きる人を通して気づいたことを人生ノートとして綴っています。

父の人生に学ぶ

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  父の人生は、波乱万丈でした。
 昭和元年6月8日、父は祖父の兄の家で、5人兄弟の四男として生まれました。

 子供がいなかった祖父は、父を養子として兄から譲り受けることにしました。
 祖母は父のことを我が子以上に大事に育てました。

 祖父はそのころ鋳物製造の会社を経営しており、堅実に事業を伸ばしていました。
ですから、父は比較的裕福な環境で育てられました。

 昭和25年11月22日、祖父は食堂がんで亡くなります。享年59歳でした。 何の苦労も知らないまま育った父は、突然祖父の会社を受け継ぐことになります。

 父は、それまで公務員をしており、会社経営についてはずぶの素人です。 結局、私が9歳のときに会社は倒産し、一家は路頭に迷うことになります。

 倒産するまでの我が家は、貧しい時代においては比較的裕福な暮らしをしていました。
 父は毎週のように、高級車で家族を遊園地や自然の山、川、海、ときには映画館などいろんな所へ遊びに連れて行ってくれました。 ところが、そんな生活は一転し、一家どん底の生活に突き落とされたのです。

 父と母は、子ども5人と祖母の計8人を養うために次の職を探しました。 新聞の求人広告に1件、1件公衆電話から連絡を入れては面接の繰り返しです。 ところが、39歳という年齢が影響したのか簡単には見つかりません。
  
ついに財布の中は10円玉1枚になりました。
  「明日からどうしよう・・・」
その時はさすがに父と母も不安でいっぱいだったと思います。

 残った10円玉で、新聞広告にあった印刷会社に祈るようにして電話をしました。
すると運良くその日に面接してもらうことができ即採用となりました。 しかも事情を話すと給料を前借することさえできたのです。

まだ一日も勤めていない人に対し、給与の前払いをするとは、とても有り難い話です。
おかげで我が家も何とか生きながらえることができました。

 父は一家を養うために懸命に働きましたが、8人を養うだけの収入には足りません。
 母と祖母は内職で足らずを補いました。  私たち5人の兄弟も、学校から帰るといつも内職の手伝いです。

 私はそのとき辛いという感情よりも、むしろ子どもながらに家族の役に立っているという満足感に浸っていたことを思い出します。 こうして家族全員が力を合わせて苦しい状況を乗り切っていったのです。

 父が印刷会社に勤めて間もない頃、裁判所から差し押さえの通告がありました。
それからしばらくして業者さんが我が家の家具一切を引き取りにきたのです。

 母はそれまでお世話になった家具を、一つひとつ丁寧に雑巾掛けをしていました。
ちょうど家具を運び出そうとしたときに、偶然一人の訪問客が現れたのです。
それは、父の会社の社長さんでした。

その日は休みだったにもかかわらず、なぜか突然来られたのです。 ところが、ただ事ではない様子を見て驚かれていました。
「中村さん、どうされたのですか?」
 
覇気のない声で父はこう返事をしました。
 「お恥ずかしい話ですが、差し押さえで家具を引き取られるところです・・・」

 「そうか、わかった。いくらや・・・」
そう言うなり社長さんは、家具の代金を全額、その場で支払って下さったのです。

お陰で我が家は、これまでと変わらず生活を続けることができました。
 「あの印刷屋さんで採用されていなかったら、今頃どうなっていたかわからない」
 母は、のちのちそんな言葉を漏らしていました。

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  父は親切を通り越して、とてもお人好しな性格でした。 父が勤める会社の社員さんの一人が不正を働き、クビになりました。 そのため一家5人が住むところが無くて困っていました。

その時に父はこう声をかけたそうです。
 「職が決まるまで、良かったら、うちで一緒に暮らしますか・・・」

ある日、学校から帰ると、突然知らない家族が大勢居るからびっくりです。 狭い家で13人がひしめき合って暮らしていました。
 
「困った時は、お互い様や!」
 自分の生活も大変な時期に、人の面倒を見ようとする父は確かに立派です。 しかし、いつもこんな調子で何の相談もなく決めるものですから、後の世話をする母と祖母にとっては大変です。 職が決まっても一家は我が家に居ついたままで、そんな生活が1年近く続きました。
  
その後、恩返しのつもりで父は印刷会社で懸命に働き、売上に大きく貢献しました。
 社員20名ほどの零細企業でしたが、8年後には番頭さんにまで昇進していました。

それからしばらくして、社長さんが引退され息子さんに代替わりすることになります。 発言力が大きくなった父が煙たくなったせいか、次第に追いやられる形になり 居場所を失っていきます。

そこで父は再び独立を決意し、小さな印刷会社を経営することになります。
 母は何度も反対しました。しかし、一度決めたら聞き入れることはありませんでした。

 最初は順調に売り上げを伸ばしてきました。しかし一件の銀行不渡りをきっかけに事業はみるみると衰退していきます。

 借金に借金をかさねて、最終的には自己破産に至るのです。 人に頼まれたら断れない。この性分が災いをもたらしたのでしょう。 父は、そのとき67歳でした。

 結局、それがもとで腎臓をわずらい、人工透析を受ける身体になりました。 しかし、母は車椅子生活になった父を見捨てずに、最期まで看病を続けました。  それから7年後の平成12年9月14日。ついに力尽きました。享年75歳でした。
 
 父と母の苦労話は、ここでは到底語り尽くせません。 世間からすれば、父の人生は失敗だったと判断するかもしれません。 ところが、私はそうは思えないのです。 母と共に最後まで力を合わせて、懸命に生き抜いた二人の人生は大変立派だったと思います。

人にはそれぞれ人生の課題があります。どんな辛いことがあっても、その課題と向き合うことが生きることだと思います。

 成功をお金の価値だけで判断する今の世の中において、どれだけ大きな事を成し遂げたかが成功の基準になりがちです。 しかし、どんな状況に陥ろうとも決して弱音を吐かず、夫婦が力を合わせて最後まで助け合い、 家族を支えてきた父と母は、私からすれば人生の課題を乗り越えた立派な成功者だと思うのです。

人生で最も大切なこと、それは、どんなにつらいことがあっても、 その人なりに、最後まで懸命に、命を大切に生き抜くことだと思います。       
 
 私は、このような人生を歩んだ両親のもとで育ちました。 そして、この両親に育てられたことを深く感謝しています。

なぜなら、少なくとも私の場合、今の自分を育てたのは、裕福な環境よりも、むしろどん底の貧しい環境があったからだと思うからです。

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