夢のみなもと人生ノート

「夢のみなもと」とは、やりたい夢を描いている本当の自分という意味で使っています。日常に起こる様々な出来事や過去の思い出から自分らしく生きる人を通して気づいたことを人生ノートとして綴っています。

ウドの大木の記憶に学ぶ

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人生というのは、苦手な相手ほど学びが大きいものです。

小学校時代、私には大変苦手なT先生という教師がいました。4年生の時の担任だったT先生は、成績の良い優等生をあからさまに、えこひいきするタイプでした。

今も鮮明に覚えている出来事があります。
ある優等生の男子生徒が、先生の机の上の拭き掃除をしている時に、運悪く青インクをこぼし、国語の教科書が使えなくなるほど汚してしまったのです。これはさすがに優等生でも怒られるだろうと思ました。

なぜなら前に、ある生徒が教室の掃除をしている時に、うっかりほうきの先をガラスに当てて割ってしまったことがありました。その時に思い切り殴られ、長時間廊下に立たされた姿が頭をよぎったからです。

だがその時先生は、故意にしたのではないと、優等生に対して何のお咎めもなく、
笑って済ませているだけでした。それほど、えこひいきがはっきりした先生でした。

特に嫌だった思い出があります。
それは毎回テストの度に、教室の後ろに生徒一人ひとりの点数を貼り出し、
なおかつ席替えは、成績の悪い順に前から座らせるのです。

その頃の私の成績は、後ろから数えた方が早かったほどの落ちこぼれ生徒でした。
成績の悪い順に座ると、私の席は前から2列目の丁度真ん中になります。

当時、私は人一倍背が高く、他の生徒と比べると頭一つ出るくらいの差がありました。
そんな生徒が、前列の真ん中に座るものですから、とても目立つのです。

それがまた授業のたびに、教壇にいる先生と目が合うと、決まって言われるのです。
「お前みたいに、背が高い生徒が前に座っていたら、後ろのものが邪魔になって仕方がない」

今にして思えば、もっと頑張って成績をあげなさい、という意味が込められていたのかも知れません。

しかし、当時の私にはそのように受け取るほどの度量は、まだ備わっていませんでした。

さらに先生は、トドメを刺すように言葉を続けます。
「お前のような人間を何というか知ってるか?ウドの大木と言うんや!」

当時の私は、その言葉の意味を知りませんでした。 自宅に帰って辞書で調べて、初めてその意味を知ったときは、さすがに落ち込みました。
「図体ばかりが大きくて、何の役にも立たない」

ある時期、先生から名前を呼ばれずに、「ウドの大木」と毎日繰り返し呼ばれたことが記憶に残っています。

このT先生の最悪のクラスが卒業まで続くと考えると、毎日学校に行くのが憂鬱で、授業にも集中する事ができなかったのです。それでも1日も休む事なく通い続けました。

すると5年生の時に運良くクラス替えになったのです。ようやくT先生から解放されると思うと、これほどありがたいことはありませんでした。

しかも担任は、前回紹介した山崎奣敏(やまさき・あきとし)先生です。山崎先生に出会えたことは、私にとってはとてもラッキーな事でした。まるで闇の中に一筋の光が射したような感覚だったと記憶しています。
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ところがです。面白いことに、T先生にえこひいきされた側の優等生は、私とは全く逆の記憶が残っていたのです。

山崎先生の場合は、成績の良し悪しに関係なく、悪い事をすれば連帯責任で、関わったもの全員が同じように、思い切りしかりとばされます。

ところが、褒められることが日常で、叱られた経験が少ない優等生にすれば、素直に受け入れにくい現実だったのかもしれません。

卒業後、30年以上経って、私は同窓会を企画しました。その時、ある優等生が発した言葉に、とても衝撃を受けたのです。

「山崎先生は最悪の先生やった。それに対して、T先生はとても信頼できる思いやりのある先生だった」と。

友人のその言葉で、私は大切なことに気がつきました。結局、人が人を判断するとき、何を基準に決めるのか。 それは自分にとって心地が良かったか悪かったか、という自分勝手な判断で記憶しているのです。しかも人は自分の記憶というのは、常に正しいと思い込んでいます。

成績の良い生徒の場合は、たとえ成績を貼り出されても嫌な気持ちにならないでしょう。むしろそのことが誇りとして記憶に残っているかも知れません。しかし、成績の悪い生徒にとっては気分の悪い記憶として残る可能性が高いしょう。

記憶というのは実に勝手なもので、同じ出来事であっても、心地が良いか悪いかで、記憶の内容は人それぞれ変わるのです。それだけ記憶というのは曖昧で、真実とはかけ離れていることもあるのです。

ですから、もしも優等生の彼が、私のように二人の先生の事を文章で表現したとすれば、記憶の違いによって全く逆の内容になるかもしれないのです。

記憶というのは、その時の感情によって心が支配され、人を誤って認知してしまう可能性ががあるという事を、私は優等生の一言で気づくことができたのです。

要するに、優等生だった彼が山崎先生に対して悪い印象を持っているように、私にとっては、たまたま心地の悪い経験をしたから、T先生のことが必要以上に悪い記憶として残っている可能性が多分にあるということです。

おそらく差別意識もこのようなことから生まれるのでしょう。差別する側と差別される側では、受け取り方は全然違います。

優位に立っている側は、差別される側の気持ちがわからないので、差別を当たり前のこととして振る舞う人が現れてくるのです。

人間というのは曲がった感情が入ると、本質がみえなくなります。そう思って、自分の人生を改めて振り返って見ると新しい発見が生まれます。

結局のところ、人からどうみられるかを常に気にしながら生きているから、人の意見が気になり言動に左右されるのです。

授業に集中できないのは、人から見られている方に意識が向いているだけの事で、
勉強ができない理由にはならないのです。

イチロー選手のように、自分がどうしたいかを大事に生きている人にとっては、
人のどんな言動にも左右されることなく、自分のパフォーマンスを発揮することだけに集中しています。

人のちょっとした言動に心が縛られ、大切な人生を無意識のうちに支配されるなんて、
よくよく考えてみれば、とてもつまらないことです。

人からどんなに非難されても、自分が自分を否定さえしなければ、心が乱れることはありません。

つまり相手の言動で心が傷ついたのだとすれば、それは相手の責任ではなく、自分が傷つく選択をしたに過ぎないということです。

優等生の言った言葉のお陰で、私は色々なことを深く考えさせられました。人の価値観は様々です。それだからこそ人生は面白いし、色々な学びができるです。

おそらくT先生は、子どものころから成績が良く、ひいきされる側の立場で過ごされたのでしょう。だから落ちこぼれの気持ちが理解できなかったのだと思います。

私がもし優等生で、えこひいきされる側に立っていたとしたら、 今とは違う記憶が残っていたかもしれないのです。

山崎先生とT先生は、私にとっては光と闇の関係だったと思います。花火は闇が深いほど美しく光り輝きます。どちらがいい悪いかではなく、今思うと共に必要な先生だったと思います。

T先生のお陰で、私は忍耐力が養われました。また、立場の弱い人の気持ちが少しは理解できるようになったでしょう。

それと一番大きかった事は、人の言動に左右されずに、自分の信じた道を生きる、そのことの大切さに気づくことができたことです。

人の出会いは、自分にとって都合の良い人ばかりとは限りません。むしろ都合の悪い人こそ自分を成長させてくれる大切な存在なのかもしれません。

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小学校時代の恩師に学ぶ

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小学校時代、私には大変お世話になった一人の恩師がいました。
その名は山崎奣敏(やまさき・あきとし)先生です。生徒一人ひとりの良いところを引き出す、情熱あふれる素晴らしい熱血漢でした。

昭和41年4月、小学5年生の新学期に、初めて私は先生と巡り合いました。

最初に印象的だった出来事があります。授業が始まってしばらくしてから、先生からこんな発言がありました。

「今週の日曜日、教室を綺麗に掃除をするので、時間があるものは参加してほしい」

その頃の暖房は、まだ石炭を燃やしていました。そのため教室の中はススで真っ黒に汚れていました。そこで先生は教室を綺麗にしようと提案されたのです。

しかし、決して強制ではありませんでした。家庭の事情で、どうしても参加できない生徒もいるからです。

あくまでも生徒一人ひとりの自主性に任せたのですが、ほとんどの生徒は自発的に参加していたように記憶しています。

タワシに磨き砂をつけて、床や壁、窓からドアに至るまでピカピカになるまで一日中徹底的に磨き続けます。すると夕方には、本来の木目が蘇り、見違えるように美しくなっていました。

「どうだ、気持ちが良いだろう!みんなで綺麗にしたこの教室で、明日から1年間お世話になるんだ。」

何か目標を持ち、みんなが協力しあって、一つのことを成し遂げ、共にその喜びを味わう。こんな中から先生は、クラス全体の連帯意識を養ってくださったように思います。

先生は学校の勉強以外にも、人生において大切なことを教えて下さいました。

「いいか、親という字は、木の上に立って見ると書くんだ。親は、ずっと子供のことを心配しながら見てるんだぞ。だから親に心配をかけるようなことだけはするなよ!!」

先生のそんな言葉は50年経った今も心に焼きついています。

その頃の我が家は貧乏生活を送っていました。しかし、我が家以上に貧しく、苦労をしている女子生徒もいました。彼女は幼い頃に母親を亡くし、父親に育てられました。

そのため小学校低学年の頃から、炊事、洗濯、買い物、掃除と言った家事全般を一人で切り盛りをしていました。

そんな状況ですから、修学旅行に行くお金を積立ることさえできませんでした。

先生はそのことを知って教育委員会に何度も足を運んで助成金を申請し、そのお陰で彼女も一緒に修学旅行に行くことができたのです。

私たち生徒は、そんなことはまったく知らずに過ごしていましたが、ずいぶん後になって同級生の母親からそのことを知らされました。

こんな先生でしたから、いつも授業が終わってからの方が忙しかったように思います。毎日遅くまで生徒宅を訪問しては、父兄との会話を大切にされていました。

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夏の思い出話があります。

先生は給料日になると、自分のお小遣の中からアイスクリームをご馳走してくれました。

授業のカーテンを閉めながら、こっそりと食べるアイスクリームの味は格別です。

 「どうだ、みんなでこっそり食べると、最高にうまいだろう・・・」

 一方で悪いことをしたら、そこに関わる者は連帯責任で、男子も女子も容赦なく平手打ちを食わされました。

私もずいぶん強く殴られましたが、家に帰っても親には言えません。そんなことをすれば、さらに叱られることがわかっているからです。

それだけ先生は、父兄からも絶大なる信頼を得ていたのです。

先生と出会うまでの私は、自分に自信が持てない、どちらかと言えば控えめな子供だったと思います。

成績もさほど良くはなく、運動神経も人並みで、特に目立った所は何一つない普通の生徒でした。

ところが、そんな私にも先生の発言で光がさしたことがあります。それは教室の外に出て、校内を写生しているときでした。

「おまえは絵がうまい。中々才能がある」

人はほめられたら、その時間が楽しくなるものです。山崎先生の一言で、週に一度の絵の時間が、とても好きになりました。

当時私が住んでいた大阪市では毎年、市が主催する写生大会がありました。

先生のお陰で、絵に対する自信が芽生えた私は、5年、6年と2年連続で大会に入賞することができたのです。

絵は他の教科のように決められた答えがなく、構図、色の表現、筆の使い方など、人によって表現方法は自由です。

自分が思い描いたことを自由に創造できる。しかも、わずか2時間ほどで、それが完成する。そのことがたまらなく面白く、魅力に感じました。

大人になるにつれて絵は描かなくなりましたが、自分にとっては、この時の想像と創造を楽しむ感覚が、将来の仕事の面白さの原点につながっているような気がするのです。

教師のちょっとした一言が、生徒に対してどれほど影響があるのか、私はこのことをつくづく実感しています。

先生は、生徒のことをいつも励まし、勇気づけてくれました。

 「おい、中村!今年1年間休まなかったら、精勤賞がもらえるぞ、がんばれよ!」

皆勤賞というのはご存知のように、6年間一度も休まなかった生徒に対して贈られる賞です。

これに対して精勤賞といのは、休んだ日が3日以内の生徒に与えられる賞です。

私は1年生の時に3日間休んだきりで、それ以降は一度も学校を休んでいませんでした。そのことを先生は、ちゃんと把握されていたのです。

 成績だけで生徒の良し悪しを判断する先生が多い中で、山崎先生は生徒一人ひとりの長所を引き出そうと常に意識をされていたように感じます。

先生からそのことを言われてから、私は精勤賞を次第に意識するようになりました。

ところが、卒業まであと1ヶ月に迫った2月の寒い日のことです。私はあいにく風邪をこじらせ40度近くの高熱を出してしまったのです。

それでも先生の励ましに応えようと、その日は無理をして登校しました。しかし、普通の状態じゃないのは、誰の目から見ても明らかです。当然先生も気づいたようでした。

「中村!しんどかったら無理せずに帰れよ!」

私は大丈夫ですと答えて、その日は最後まで授業を受けました。しかし、翌日も熱が下がらず、とうとう学校を休むことになってしまったのです。

それから1ヶ月後の卒業式当日のことです。驚いたことに、3名いた精勤賞の中の一人が、自分だったのです。

「よく頑張ったな!」

先生からは温かいお言葉をいただきましたが、私自身は少しうしろめたい気持ちがありました。

もちろん、先生は私が4日休んだことはご存知だったと思います。では、なぜそのように判断をしたのか、当時は理解できませんでした。

しかし今、この歳になって思うに、先生は規定を一日オーバーしたことよりも、高熱を出しても休まずに学校に行こうとする姿勢が精勤賞に値する、おそらくそう判断されたのだと思います。

山崎先生は、これまでどれほど多くの生徒を勇気付け、励まし、一人ひとりの良さを引き出されたことでしょう。

私もその中の一人ですが、先生との出会いがなければ、また違った人生を歩んでいたに違いありません。

平成元年2月24日、昭和天皇が逝去されたこの年に、山崎奣敏先生は63歳という若さで天寿を全うされました。

成績を重んじる偏差値偏重教育のこの時代に、

成績の良し悪しだけでは計ることなく、

生徒一人ひとりの個性を引き出し、

常に本質を見極め、本気で生徒と向い合う、

そんな教師がどれほど存在していることでしょう。

今私もこの歳になって、山崎先生の教師としての尊さを身にしみて感じています。

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父の人生に学ぶ

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  父の人生は、波乱万丈でした。
 昭和元年6月8日、父は祖父の兄の家で、5人兄弟の四男として生まれました。

 子供がいなかった祖父は、父を養子として兄から譲り受けることにしました。
 祖母は父のことを我が子以上に大事に育てました。

 祖父はそのころ鋳物製造の会社を経営しており、堅実に事業を伸ばしていました。
ですから、父は比較的裕福な環境で育てられました。

 昭和25年11月22日、祖父は食堂がんで亡くなります。享年59歳でした。 何の苦労も知らないまま育った父は、突然祖父の会社を受け継ぐことになります。

 父は、それまで公務員をしており、会社経営についてはずぶの素人です。 結局、私が9歳のときに会社は倒産し、一家は路頭に迷うことになります。

 倒産するまでの我が家は、貧しい時代においては比較的裕福な暮らしをしていました。
 父は毎週のように、高級車で家族を遊園地や自然の山、川、海、ときには映画館などいろんな所へ遊びに連れて行ってくれました。 ところが、そんな生活は一転し、一家どん底の生活に突き落とされたのです。

 父と母は、子ども5人と祖母の計8人を養うために次の職を探しました。 新聞の求人広告に1件、1件公衆電話から連絡を入れては面接の繰り返しです。 ところが、39歳という年齢が影響したのか簡単には見つかりません。
  
ついに財布の中は10円玉1枚になりました。
  「明日からどうしよう・・・」
その時はさすがに父と母も不安でいっぱいだったと思います。

 残った10円玉で、新聞広告にあった印刷会社に祈るようにして電話をしました。
すると運良くその日に面接してもらうことができ即採用となりました。 しかも事情を話すと給料を前借することさえできたのです。

まだ一日も勤めていない人に対し、給与の前払いをするとは、とても有り難い話です。
おかげで我が家も何とか生きながらえることができました。

 父は一家を養うために懸命に働きましたが、8人を養うだけの収入には足りません。
 母と祖母は内職で足らずを補いました。  私たち5人の兄弟も、学校から帰るといつも内職の手伝いです。

 私はそのとき辛いという感情よりも、むしろ子どもながらに家族の役に立っているという満足感に浸っていたことを思い出します。 こうして家族全員が力を合わせて苦しい状況を乗り切っていったのです。

 父が印刷会社に勤めて間もない頃、裁判所から差し押さえの通告がありました。
それからしばらくして業者さんが我が家の家具一切を引き取りにきたのです。

 母はそれまでお世話になった家具を、一つひとつ丁寧に雑巾掛けをしていました。
ちょうど家具を運び出そうとしたときに、偶然一人の訪問客が現れたのです。
それは、父の会社の社長さんでした。

その日は休みだったにもかかわらず、なぜか突然来られたのです。 ところが、ただ事ではない様子を見て驚かれていました。
「中村さん、どうされたのですか?」
 
覇気のない声で父はこう返事をしました。
 「お恥ずかしい話ですが、差し押さえで家具を引き取られるところです・・・」

 「そうか、わかった。いくらや・・・」
そう言うなり社長さんは、家具の代金を全額、その場で支払って下さったのです。

お陰で我が家は、これまでと変わらず生活を続けることができました。
 「あの印刷屋さんで採用されていなかったら、今頃どうなっていたかわからない」
 母は、のちのちそんな言葉を漏らしていました。

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  父は親切を通り越して、とてもお人好しな性格でした。 父が勤める会社の社員さんの一人が不正を働き、クビになりました。 そのため一家5人が住むところが無くて困っていました。

その時に父はこう声をかけたそうです。
 「職が決まるまで、良かったら、うちで一緒に暮らしますか・・・」

ある日、学校から帰ると、突然知らない家族が大勢居るからびっくりです。 狭い家で13人がひしめき合って暮らしていました。
 
「困った時は、お互い様や!」
 自分の生活も大変な時期に、人の面倒を見ようとする父は確かに立派です。 しかし、いつもこんな調子で何の相談もなく決めるものですから、後の世話をする母と祖母にとっては大変です。 職が決まっても一家は我が家に居ついたままで、そんな生活が1年近く続きました。
  
その後、恩返しのつもりで父は印刷会社で懸命に働き、売上に大きく貢献しました。
 社員20名ほどの零細企業でしたが、8年後には番頭さんにまで昇進していました。

それからしばらくして、社長さんが引退され息子さんに代替わりすることになります。 発言力が大きくなった父が煙たくなったせいか、次第に追いやられる形になり 居場所を失っていきます。

そこで父は再び独立を決意し、小さな印刷会社を経営することになります。
 母は何度も反対しました。しかし、一度決めたら聞き入れることはありませんでした。

 最初は順調に売り上げを伸ばしてきました。しかし一件の銀行不渡りをきっかけに事業はみるみると衰退していきます。

 借金に借金をかさねて、最終的には自己破産に至るのです。 人に頼まれたら断れない。この性分が災いをもたらしたのでしょう。 父は、そのとき67歳でした。

 結局、それがもとで腎臓をわずらい、人工透析を受ける身体になりました。 しかし、母は車椅子生活になった父を見捨てずに、最期まで看病を続けました。  それから7年後の平成12年9月14日。ついに力尽きました。享年75歳でした。
 
 父と母の苦労話は、ここでは到底語り尽くせません。 世間からすれば、父の人生は失敗だったと判断するかもしれません。 ところが、私はそうは思えないのです。 母と共に最後まで力を合わせて、懸命に生き抜いた二人の人生は大変立派だったと思います。

人にはそれぞれ人生の課題があります。どんな辛いことがあっても、その課題と向き合うことが生きることだと思います。

 成功をお金の価値だけで判断する今の世の中において、どれだけ大きな事を成し遂げたかが成功の基準になりがちです。 しかし、どんな状況に陥ろうとも決して弱音を吐かず、夫婦が力を合わせて最後まで助け合い、 家族を支えてきた父と母は、私からすれば人生の課題を乗り越えた立派な成功者だと思うのです。

人生で最も大切なこと、それは、どんなにつらいことがあっても、 その人なりに、最後まで懸命に、命を大切に生き抜くことだと思います。       
 
 私は、このような人生を歩んだ両親のもとで育ちました。 そして、この両親に育てられたことを深く感謝しています。

なぜなら、少なくとも私の場合、今の自分を育てたのは、裕福な環境よりも、むしろどん底の貧しい環境があったからだと思うからです。

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トップセールスウーマンの接客術に学ぶ

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「未使用車専門店」という大きな看板が 街中に立っているのを見られたとこがあると思う。「未使用車」とは状態は新車ではあるが、すでにナンバー登録しているので 実質的には新車とは言えない。

なぜこのようなことが発生するのかというと、 デーラーが新車を販売する際に、 販売成績に応じて販売店に 奨励金を出す仕組みになっているからだ。客にとっても重量税がすでに支払われているので新車よりも少々割安になるというメリットがある。

 車を購入する数が多ければ、 それだけ報奨金も多く入ってくる。 そのために販売店はあらかじめ余分に発注するのだが、 仕入れた車がすべて売れるわけではない。そこで在庫に残ったものが未使用車となるわけである。
 

普段、私は8人乗りのワゴン車に乗っている。だが最近、母親の介護のために大阪の実家に戻ることが多く、 車を置くスペースを考慮し、この際思い切って 燃費のいい軽四車への乗り換えを検討することにした。

そこで先日、新聞のチラシに掲載されていた二軒の未使用車専門店を訪問したのである。 その対応の仕方が、一流販売員と二流販売員とでは歴然と違いがわかる。今回はその時感じた率直な感想を紹介する。

まず、一軒目に訪問した販売店。 ここはスペースも広く、スタッフ数もかなり多い。 品揃えも豊富で100台以上は陳列されていた。

その中で対応したのが一人の中年男性だった。ところが男性と話をしていくうちに、 だんだんと買う気が失せていく。理由は客のニーズを聞く前に、 自分の都合を押し付けてくるからである。価格は思ったより安い。 ところが、付帯経費がずいぶんと割高になっている。しかも次回3年後の車検料金まで上乗せになっている。

納得しかねている私に、男性は言い訳がましく弁解する。
「車自体には儲けがなく、むしろ赤字なので、
次回の車検代を先にいただくことで利益をカバーしています・・・」

そんなことは誰も聞いてもいないし、 客にとってはどうでもいい話である。 しかも未使用車の利益構造を知っているだけに余計にしらけてしまう。 車の下取りは結構いい値段を出してくれた。にもかかわらず買う気にはれない。

続いて二軒目のお店。 ここは一軒目の店の10分の1にも満たない小さなスペースだった。 本業は修理工場で、どうやら片手間で車も売っている、 一見そのように感じる雰囲気の店だった。

品揃えも20台ほど。一軒目の店と比べると極端に少ない。 一回りすれば全ての車種が物色できるほどの数である。 しかも最初に訪問した販売店よりも価格も割高となっている。そこに40歳後半の一人の女性が登場。 バリバリの営業ウーマンとは程遠い、 いたって普通の主婦という感じの人だった。 名刺を差し出し、彼女の最初に発した言葉はこうである。

「販売担当のHです。 私のできる範囲で、お客様の要望にできるだけお応えします」
この誠意ある一言で客の心をぐっとつかんでくる。

「燃費が良くて、お手頃なおすすめ商品はありますか?」
そう尋ねると彼女は、一般的な言葉で対応する。
「こちらのお車はどうでしよう!今、人気の車です。 カタログ燃費はリッター30となっていますが、 実燃費は七掛けでリッター20ほど走ります・・・」

ところが勧められたのが、なんとオレンジの、超ど派手な色。 もちろん自分では絶対に選ばない色である。
「こんな色は女性か、もっと若い人が選ぶんじゃないですか!」
少し戸惑いながら答えるが、すかさずこう切り返してくる。

「こういうオシャレな色を、 50歳過ぎの方が乗りこなすから、かっこいいんじゃないですか・・・」
すでに60歳を過ぎた私にとっては、なんともうれしいお言葉である。

「いや、いや、私はもうすでに、還暦を過ぎてますから・・」
お世辞と分かりつつも、気持ちはまんざらでもない。
「いや、それは絶対見えませんわー。私と同じくらいと思うてました。この車を乗ると気持ちまでお若くなりますよ。絶対気にいってもらえます」
 
相手を持ち上げながら自信を持って言い切ってくる。 さらに客を惹きつける言葉を次々と投げかけてくる。
「ナビとETCもお付けします。3年間のオイル代もサービスします」
私が即答しかねていると、しばらく間をおいてこう提案する。
「もし価格がお気に召さないようなら、
ご予算に少しでも近づけるように上司に一度相談してみますが、いかがですか」
 
一軒目の店は最初に安く提示しながら付帯経費で稼ごうとする。 一方この店は最初は割高と思える価格から客が納得していく提案を投げかけてくる。自信のない販売員は目先の値段で客の気を引こうとするが、自信のあるセールスウーマンは接客術で勝負する。

結局、一軒目に訪問した販売店と同じくらいの価格になっていくのだが、 彼女の熱意のこもったトークに、こちらも自然とペースにはまっていく。それなのに、まったく嫌な気持ちにはならないのが不思議である。

「ところで、今乗ってきたワゴン車の下取り価格はいくらになりますか」
そう尋ねると、彼女は早速係りの人に見積もりを取ってもらう。 ところが提示された金額がかなり低く、一軒目の4分の1ほどの査定だった。

「それはあまりにも低すぎますよ。 一軒目のお店は、その4倍ほどの査定でしたよ」
私が残念な表情を示すと、それに対しても彼女は反論しない。
「そうなんです。うちは下取り価格が低くて有名なんです」
自分のマイナス面を隠さず、言い訳もせず、正直に話す。そして、私の耳元に寄り添い小さな声でこう切り出してくる。
 

「査定なら買取専門会社〇〇のTさんに、ぜひ相談してみてください。このあたりでは彼が一番良心的です」
なんと自社の不利な条件を他店を紹介することでカバーしようとする。 しかもメモを取り出して丁寧に電話番号と住所まで記入して渡してくれた。

「そこで査定してもらってから、もう一度検討してみてください・・・」
やれることは全てやる。それ以降は客の判断に委ねる。とても潔い対応である。もちろん会社には内緒で彼女独自の判断だろう。

早速、その足で紹介してもらった中古車買取専門会社に行ってみる。 すると彼女の言う通り、納得の価格を提示してくれたのである。 そこでもう一度引き返して、その場で購入を決めた。

契約を結ぶときに私は彼女に聞いてみた。
「Hさんの営業成績は、かなりいいでしょう。」

「当社は、ダイハツ販売数全国一位です」
返ってきた言葉に私は唖然とした。これまで数多くの販売員と接してきたので、ある程度の見当はつく。だが、まさか全国一とは予想だにしなかった。
 
二軒の販売店を比較してどこが違うのか。値段の差はほぼ同じ程度だが、 店のスペース、品揃え、スタッフ数、それに下取り価格といい 条件的には一軒目の販売店の方がはるかに有利だと思える。ところが圧倒的に不利な条件であっても、結果的にはそちらを選ぶことになった。

二流販売員は売れない原因を環境のせいにし、言い訳をする。それに対し、一流セールスウーマンは、今ある現状を受け入れ、その中でいかにお客に納得してもらえるかを考え、誠意を尽くす。やはり結果を出す人は、相手の目線に立った姿勢を終始忘れない。しかも購入を決めた販売店の販売員はわずか3名。 もちろん彼女はその中で、ダイハツ販売数全国一の実績を持つ トップセールスウーマンだったのである。

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祖母の人生に学ぶ

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 私は、5人兄弟の四男に生まれました。 
 妹と年子だった私は、幼少の頃から祖母に面倒をみてもらっていました。

明治生まれの祖母は、母に対してはとても厳しい人でしたが、孫にはとてもやさしいおばあちゃんでした。中でも私は、特にかわいがってもらいました。
どこへ行くにも必ず連れてまわり、それが祖母の喜びであったようです。

 私が生まれた昭和30年代は、大阪市内にも自然がまだたくさん残っていました。
 自宅近くには大きな木が立ち並び、草花がいっぱい咲いていて、近所には空き地がたくさんありました。
 
  祖母は地主さんに土地をお借りし、そこで畑を耕していました。
 「すんまへんが、畑作るんで、場所を貸しておくんなはるか・・・」。
 「かめへん、かめへん、好きなように使うてや!」

 祖母がたのむと、地主さんは気持ちよく貸してくれたそうです。 そんなのどかな時代でした。 夏になると畑でもぎ取ったキュウリやナスをよく祖母に食べさせてもらったものです。

 祖母は、とても信仰心の厚い人でした。 ですから躾をするのに、神仏ことをよく口にしていました。
 「悪い事をしても、ちゃんと神さんが見てはるで」
 「人に迷惑かけたら、自分に返ってくるんやで」
 「嘘をついたら、閻魔さんに舌をぬかれるで」
 「感謝しとったら、神仏に守られるんやで」

このような会話は昔の人なら当然で、何も祖母に限ったことではありません。しかし、当たり前ことが、当たり前でなくなったときに、人の心が乱れていくように思います。

 祖母は大変世話好きな人で、人が困っていると、自分のことのように思う人でした。
ですから、近所の人は、祖母のところによく相談に来られ、また、祖母自身も出向いては相談に乗っていました。
 
その頃、一匹の柴犬を飼っていました。名前は「トニ」と言いました。私が生まれたときには、すでにトニはいました。 とても賢い犬で、それに喧嘩がめっぽう強く、負けたことがありません。 ですから他の犬がトニに出くわすと、避けて通ります。しかし、人には噛み付くことはありません。 そんなことをしたら祖母が許さないからです。

トニは、祖母の言うことを良く聞いていました。 あるとき、トニがいなくなったことがあります。 家族みんなで探したのですが見つかりません。 すると、近所の人が教えに来てくれました。


 「トニなら、昨日、保健所の人が連れて行きはったで・・・」
それを聞いて早速父はトニを迎えに行きました。そして無事に我が家に戻ってきたときです。 トニは真っ先に祖母のところに駆け寄って、 喜んで祖母の顔をなめまわしていました。そのときの光景を懐かしく思います。

 昭和37年6月14日、私が小学校1年生のときです。 朝起きて顔を洗いに行こうとしたら、トニが倒れていました。 私は大声で祖母を呼びました。

 「おばあちゃん、たいへんや、トニが倒れている!」
そのときトニは、すでに息を引き取っていました。

 亡くなる前日、トニはお世話になった方々に挨拶に行っていたと、 後になって近所の人たちから聞きました。 それほど賢い犬でした。

 祖母はトニの遺体の前でお経をあげ、ずいぶん長い時間、別れを惜しんでいました。
その模様が、昨日のことのように思い出されます。

そんな祖母が脳梗塞で倒れたのが、昭和45年1月13日のことです。夕食を終えて一段落しようとしたときに、 一瞬目まいがして、その場で倒れたのです。

それから半年後の6月14日、祖母は亡くなりました。享年75歳。偶然にもそれはトニと同じ命日でした。 トニが死んで、ちょうど8年後の出来事です。
  
母は半年間、寝たきりの祖母を懸命に看病しました。 嫁に来た頃、祖母にはずいぶんきつくされたと聞かされています。 しかし、祖母は亡くなる何日か前に、涙ながらに父に語ったそうです。
 「おまえ、ええ嫁さんもろうてくれて、 ありがとうな。ありがとうな・・・・・」

お葬式は、雨の中で行われました。当時、中学3年生だった私にとって、お葬式に出るのは初めての経験です。


 雨の中にもかかわらず、ご焼香には参列者が長蛇の列を作り、祖母の死を悼みました。
その頃は、あまり実感していなかったのですが、参列者の多さに気づいたのは、 私が大人になって、他のお葬式に行くようになってからのことです。

けっして名を残したわけではなく、
れといった功績があったわけでもなく、
 何一つ大きなこともしていない、
そんな祖母に、なぜあれほど多くの人が集まったのか・・。

それは多くの人が、心から感謝していたという証にほかなりません。
 人の評価は、お葬式のときにわかると言われます。
 私は祖母の人生を振り返ってみて、まだまだ足元にも及ばないと感じる毎日です。
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ミツバチの生き方に学ぶ

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はじめまして。

私は、中村康治(やすはる)と申します。

普段は、『夢源塾』というセミナーの

講師をやっていますが、

日常の生活で起こるいろんな出来事や、

テレビ、映画、それに本などを通して

気がづいたことを、

ブログで報告していきいと思います。

第1回目はミツバチに学んだ

僕の原点になる生き方をご紹介します。

 

45歳まで僕は、大阪のある中堅商社に

勤務していました。

ある程度のお金と地位を手にしたものの、

無理がたたってか身体を壊してしまいました。

そのときに思ったのです。

「これは自分らしい人生では無いのでは」と。

 

当時、妻と小学校に通う

3人の子どもを抱えながら、

何のあてもないまま、

思い切って長年勤めた会社を退社しました。

それからまもなく世界遺産で有名な

熊野の大自然と出会うのです。

木々と清流に囲まれ、

澄んだ空気の中で鳥のさえずりを聞きながら、

「これから何をしようか?」

と考えていた時に、

一匹のミツバチが

目の前の黄色い菜の花にとまりました。

何の変哲もない、

どこにでもあるような些細な光景です。

それが、自分の人生の方向を示す

大きな出来事に変わったのです。

その体験を友人の記者に話をしたところ

早速記事にしてくれました。

今回はその文章を紹介させていただきます。

 

ミツバチの生き方に学ぶ

自然界に生きる動植物には、

すべて役割があります。

例えば、ミツバチは花の蜜を吸いながら、

花の受粉を助けています。

しかしながら、ミツバチは受粉が目的で

花の蜜を吸っているわけではありません。

蜜を吸うことが、ミツバチの喜びなのです。

ここに生きるヒントが隠されています。

自分が喜びをもって幸せに生きることが、

同時に何かの役に立っている。

これが大自然の仕組みなのです。

「働く」の語源は、

ハタを楽にすると言われるように、

人にもそれぞれ

ミツバチのような天分があります。

つまり、自然に身を委ねれば、

誰でもミツバチのような

生き方ができるはずです。

にもかかわらず大部分の大人は、

人生の勝ち組は、地位、名誉、

お金を得ることだと信じています。

親は偏った考えを

子どもに押し付けてしまうために、

子どもの才能を見いだせないまま、

天分とは違う道を歩んでしまうのです。

しかし、本当の勝ち組って、

そうなのでしょうか。

もしもそれが真実だとしたら、

一部の人しか勝ち組に

残れないことになります。

これって不自然な生き方ですよね。

自然界の生き物はすべてが調和し、

他を活かしながら生きています。

人生の勝ち組とは、ミツバチのように、

自分らしく、喜びを持って生き、

それが何かの役に立っていること

ではないでしょうか。